日本の細菌戦
(「おしえて!ゲンさん!日本の細菌戦」より引用)
最終更新日:2014/12/13 12:09
この原稿は1997年に書いたものを基本にして、大幅に加筆しました。
731部隊を始めとしたいわゆる4つの細菌部隊の目的は捕虜を使った実験だけをしていただけではありません。
実はこれらの残虐行為はそれ自体が目的ではなく,細菌の毒力強化や,効果判定や,大量生産のシステムを作り上げるための研究として行なわれていたのです。
そして本当の目的は実際の戦争で細菌戦を実行する事でした。もともと日本の軍事医学は非常に優れていました。
昔から世界のどの戦争でも,実際の戦闘で死ぬ人よりも伝染病その他の病気で死ぬ人の方が多かったそうです。
ところが日露戦争では日本軍の病死者が少ない事が世界の驚異となりました。
しかも日本軍はとても人道的で,多くのロシア人捕虜の病気や怪我を治療して送り返した事が欧米諸国から賞賛されたと言うエピソ-ドが残っている位です。
しかし石井四郎率いる731部隊が登場してから戦争医学は人命を救う事から,戦争の手段つまり細菌攻撃をする目的に180度変ってしまったのです。
資源の乏しい日本が大国であるソビエトやアメリカと戦争するためには最も安上がりな生物兵器が必要だと言う石井四郎の意見が通ったせいです。
*関東軍司令官 山田乙三大将 ハバロフスク公判供述
・・・・731部隊は、主としてソビエト同盟並びに蒙古人民共和国及び中国に対する
細菌戦の準備を目的として編成されたものである
* 元 731部隊隊員 軍属 篠塚良雄 証言
生体解剖ともなれば,確かに医者たちは自分の研究や野心を満足させるので喜々としてやる。
植付けた細菌がどの部位でどのような変化を与えているか大変興味をもって調べる。
しかしそれは731部隊の目的からすれば2次的なことだ。
本来は,そこで細菌の毒力がどれだけ強化されたかを調べ,
より強力な細菌をとり出すということだ。
したがって生体実験というものは、細菌の毒力、感染力の強化実験と言ってもよい。
生体解剖が必要なのは、死後の雑菌によって植付けた菌の毒力が低下しないためだ。
*大阪大学名誉教授 中川米蔵 1994年証言
私は昭和20年に京都帝国大学に入学した時、731部隊幹部である軍医の話を聞きました。
「医学と言うのは,病気を治したり,ケガを治したりするものではない。日本は世界を相手に戦っている。
医学もまた兵器だ」
そして細菌戦はその通り実行されました。
1938年に日本軍機による細菌爆弾の投下や井戸へのコレラ・チフス菌の投下などの記録がありますが、裏づけの証拠や資料が不足しています。
確実なのは1939年のノモンハン事件がらです。
*証言 西俊英軍医中佐 731部隊教育部長 (1949年12月26日、ハバロフスク裁判公判記録から)
(注:検事の質問は短くして、答えを中心に書きます)
◎ハルハ河方面事件の際、石井部隊が細菌兵器を実用したことを知っています。
1944年7月、私は孫呉の支部から平房駅の第731部隊教育部長に転任せしめられました。
私は前任者園田中佐から事務を引き継ぎました。同日、園田中佐は日本に向けて出発しました。
私は彼の書類箱を開け、ノモンハン事件、すなわちハルハ河畔の事件で、細菌兵器を使用したことについて書類を発見しました。
そこには当時の写真の原版、この作戦に参加した決死隊の名簿、碇少佐の命令がありました。
決死隊は将校が2人、下士官、兵役20名からなっていました。
この名簿の下には血で認めた署名があったのを記憶しています。
◎(誰の署名か?)
隊長碇の署名です。
ついで碇の一連の詳細な命令、すなわち如何に自動車に分乗し、如何にガソリン瓶を利用するか等、
さらに帰還するかについての指示が若干ありました。
これら2つの文書から20人乃至30人からなる決死隊が河-私はハルハ河と思いますが-を汚染したことが明らかになりました。
翌日私は、これ等の書類を碇少佐に手渡しました。
私がこれ等の書類を碇に手渡した時、さてこの結果はどうであったのかと興味を持ちました。
碇は黙ったまま書類を引取りました。
この作戦が行われた事実は争う余地がありませんが、その結果に就いては、私は何も知りません。
*証言 元731部隊少年隊 千葉和雄、鶴田兼敏、石橋直方
1989年8月24日 朝日新聞 (要約)
「ノモンハン事件の戦場に川に、私たちの手で大量の腸チフス菌を流した」ホルステン川の上流から病原菌を流し、下流のソ連軍に感染させる目的で,
ハルビン平房から軽爆撃機で輸送されて来た18リットルの石油缶22~3個に入った寒天状の腸チフス菌を川にぶちまけた。
その際隊員の中に感染者が出て、死亡したものもあった。
腸チフス菌を川に投入すれば流されてすぐにも効力がなくなることぐらいは石井らも知らないはずはない。
あの作戦は細菌戦というよりも、私らの士気を高め、能力がどのくらいあるのかを調べる訓練のように思う。
その後中国各地で細菌戦を行ない,
最後には東南アジア、オ-ストラリア、アメリカまでが目標になってきます。
しかし戦後の東京裁判では日本は731部隊の事は免責され、
存在すら認めていなかったのですから,細菌戦も当然無かった事とされてきました。
ところが最近になって細菌戦の実体が少しづつ明らかになってきました。
まず1994年10月浙江省崇山村(せっこうしょうすうざんそん)の農民たちが損害賠償を求める文書を日本大使館に提出しましたが、日本政府は無視しました。
この動きがきっかけになって,1997年8月11日にはその細菌戦で被害をこうむったとして108人余りの内代表で4人の中国人が来日し日本政府を訴えました。
原告の108人は浙江省,湖南省の6ケ所の地域の人達です。
今回述べる細菌戦は主として満州の731部隊と南京の栄1644部隊との合同で行なわれたものです。
細菌戦による被害は1940年から出ていますが,米軍による空襲が始った1942年4月からは、その米軍基地が浙江省にあると判断した大本営は支那派遣軍に対し
同省附近の掃討戦を命令し浙かん作戦と称され,その一環として細菌戦が強化されたのです。
最終更新日:2014/12/13 12:10
細菌戦はあったのでしょうが,具体的な証拠証拠がなかなか発見出来ませんでした。
ところが1993年6月、偶然に多くの資料が中央大学の吉見教授等によって発見されました。
発見場所は「防衛庁防衛研究図書館」です。
陸軍幹部の業務日誌が発見されたのです。
その後その資料は閲覧禁止になってしまいましたが,
日本政府保管の正式資料ですから重大な証拠となります。
国は全面公開するべきでしょう。
発見された日誌は下記の通りです
参謀本部作戦課 井本熊夫中佐の業務日誌 23冊
1940年9月~1942年12月、参謀本部作戦課員
陸軍省医務局医事課 金原節三大佐の陸軍省業務日誌摘録 35冊
1937年8月から陸軍省医務局医事課員
1941年11月から同医事課長
同上 大塚文夫大佐の備忘録 13冊
金原大佐の後任として1943年9月、医事課長就任
参謀本部第一部長 真田穣一郎少将の業務日誌 40冊
次の項目から始まるレポ-トでは、実際の細菌戦の様子や証言と、これを裏付ける日本軍の上記日誌等を年代ごとに別項目にして整理します。
最終更新日:2014/12/20 10:50
1940年から日本軍は浙江省各地で細菌攻撃を行っています。
衢州市 10月4日
寧波市 10月22日(27日とも言われる)
金華市 11月27日~28日
主として上記の3ケ所ですが、それらの周辺に被害は拡大しています。
細菌攻撃は必ずしも上記日付だけで行われたわけではなく、また攻撃地点から感染が周辺に伝播していったため、ばらばらの時期に流行が起きています。
攻撃地区は浙江省の7ケ所です。
まず浙江省を中心とした地図です。この年以降の細菌戦にも役に立つ地図です。
「浙江省衢州市(衢県)」
麦粒,トウモロコシ,大豆,綿と共に飛行機からペストノミを投下しました。
11月12日から高熱,リンパの腫れ,嘔吐,出血の患者が続出。
県衛生院の検査の結果ペスト桿菌が発見されました。
県,省政府,重慶政府は直ちに各種防疫活動を行ないましたが感染は広がって行きました。
その後日本軍は1942年8月31日にもさらにペスト,チフス,赤痢菌を散布して撤退しました。
その被害者は1940年 ペストによる死者21人
1941年 ペストによる死者274人
1942年 ペストの死者2000人 赤痢の死者 1000人
その後も病気は広まり1950年までに315人が罹患し、305人が死亡したといわれます。
注:色々な集計があるので人数は参考です。
内 296人が腺ペストといわれています。 (以上中国側資料から)
*被害者証言 黄権運さん
1940年10月4日の朝9時頃だった。日本軍機が1機、低空でこの町の上空へ飛んできた。
その後、あたりには麦やトウモロコシと一緒にノミがいっぱい散らばっていた。
私が見たノミは大きくて黒ずんでいたが、皆死んでいた。
中には、鶏のえさにするために持ち帰った者もいた。
しばらくして指示が出て衢江の川舟に避難した。
舟の中で2ケ月間生活しなければならなかった。
*中国「東南日報」 1940年11月22日
「衢県でペスト発見-死者すでに十余人」
衢県西門の柴家巷、県西街、水亭街で19日突然ペストが発生、死者はすでに十余人にのぼる。
この一帯は人口が密集しているので、当局はペスト発生後、特に気を配っている。・・・・
ペスト菌汚染地区の住民は蔓延を防ぐため船に移すことになろう。
症状の重い患者は目下わずか3名で、ペストがこれ以上広がることはないものと見られる。
「浙江省鄞県寧波市」
1940年10月27日、午前7時頃と午後2時頃の2回、日本軍機が寧波市開明街に飛来。、
1回目はビラ(「日本は豊かで食糧援助が出来る」と記載)を撒き、午後には大量の小麦・麦つぶなどと共にペストノミを投下した。
この時、開明街上空は一時淡黄色の霧に覆われた状態となった。
夜半、にわかに雨があり屋根の麦つぶや赤色をしたノミを流して天水ガメに大量に浮いた。
多くの住民が飛行機の投下とノミを目撃している。
10月30日、開明街滋泉豆腐店の頼夫婦が死亡。以後連日死亡者が続出。
11月4日、華美病院(現・寧波第2病院)丁成立院長は
患者のリンパ腺から菌を分離し動物実験でペストであると断定。
この日隔離病院を3ケ所設ける。
(黄可泰寧波市医科学研究所所長及び12人の聞き取り調査から)
死亡者 106名(姓名,住所,死亡期日が分かっている人数のみ)
内,家族全部が死に絶えたのが12家族。
開明街一帯は、政府によって封鎖され、焼却されたが
1960年代まで人が住むことがなく「ペスト街」と呼ばれました。
*2002年東京地裁判決から
出動期間 1940年7月~12月
出動場所 杭州~寧波
出動人員 100名
現地指揮官 石井四郎大佐、大田澄大佐
使用細菌 ペスト
撒布方法 上空から撒く雨下作戦
死亡者 109名
*被害者証言 黄可泰 寧波市医学化学研究所 前所長
1940年10月27日,午前7時頃と午後2時頃日本軍機が飛来。
1回目は「日本は豊かで食料援助が出来る」と書いたビラを撒き,
午後には大量の小麦粉・麦つぶ等と共にペストノミを投下した。
薄黄色のモヤが発生し、屋根瓦でパラパラ音がしたので、住民は驚き怯えました。
ノミは紅色をして、やや小太りで普通のノミとは違っていた。
後でわかったのですが、これは体内に億万個のペスト菌を保有しているノミでした。
人とネズミにたかるノミでカイファンカノミ(インドネズミノミ)といいます。
29日には発病者が現れ、31日から死亡者が続出した。
11月3日の報道では死亡者16人、6日までに47人にのぼった。
11月4日同市の華美病院でペストと断定。
11月30日汚染地区5000平方米115戸を焼払い一大廃虚となり,
そこは1960年代まで人が住まずペスト広場と言われた。
その後の調査では姓名・住所・死亡時期が分かっているだけで106人が死亡しました。
*被害者証言 銭貴法さん 開明街の酒屋に勤めていた
1940年10月、日本軍機が低空で開明街に飛来し、小麦や小麦粉を撒いた。
屋根にサッサッと落ちる音がした。その中にノミがいた。ノミは水かめにもたくさん浮かんでいた。
私も発病し、高熱が出て、足の付け根のリンパ腺が腫れた。手術をしてしばらくは歩けなかったが助かった。
私と同じ隔離施設に運ばれた人たちは次々に棺桶で運ばれていった。
体は痙攣し、エビのように固まって死んでいった。
肢体はみな黒ずんでいた。
*日本軍人証言 川島清 731部隊第4部細菌製造部長
(1949年12月25日、ハバロフスク裁判公判記録から)
注:検事の質問は()内に簡単にして、証言を中心に書きます。
◎(1940年の派遣隊について)石井中将は中国の医学雑誌を見せてくれました。それには1940年における寧波一帯のペスト流行の原因について述べられていました。
彼は私にこの雑誌を見せた後、寧波一帯で第731部隊の派遣隊が飛行機からペスト菌を投下し、これが伝染病流行の原因となった事を話しました。。
◎かれはこの派遣隊の工作は成功したと考えていました。
◎(この地図で細菌戦の実施は?)はい、確認します
◎まさに私が記号をつけた地図です。
*日本軍人証言 西俊英軍医中佐 731部隊教育部長
(1949年12月26日、ハバロフスク裁判公判記録から)
私は、1940年の中国中部への第731部隊派遣隊の活動に関する記録映画を見ました。
まず映画には、ペストで感染された蚤の特殊容器が飛行機の胴体に装着されている場面がありました。
ついで飛行機の翼に撒布器が取付けられている場面が映され、さらに特別容器にはペスト蚤が入れられてあるこという説明がありまって、
それから4人或いは5人が飛行機に乗りますが、誰が乗るのかわかりません。
それから飛行機が上昇し、飛行機は敵方に「向かって飛翔しているという説明があり、次いで飛行機は敵の上空に現れます。
次いで飛行機、中国軍部隊の移動、中国の農村などを示す場面が現れ、飛行機の翼から出る煙が見えます。
次に出てくる説明からこの煙が敵に対して撒布されるペスト蚤であることが判って来ます。
飛行機は飛行場に帰って来ます。
スクリ-ンに「作戦終了」という文字が現れます。
ついで飛行機は着陸し、人々が飛行機に駆け寄りますが、これは消毒者で、飛行機を消毒する様子が上映され、その後、人間が現れます。
まず飛行機から石井中将が姿を現し、ついで碇少佐、その他の者は私の知らない人です。この後「結果」という文字が現れ、中国の新聞及びその日本語翻訳文が上映されます。
説明の中で、寧波付近で突然ペストが猛烈な勢いで流行し始めたと述べられています。
最後に、終わりの場面で中国の衛生兵が白い作業衣を着てペスト流行地区で消毒を行っている様子が上映されています。
正にこの映画から、私は寧波付近で細菌兵器が使用された事を知る様になりました。
*日本軍人証言 731部隊少年隊 石橋直方 (1994年証言)
私たちがハルビンを出発したのは、1940年7月26日だったと思う。
ボイラ-室の前の引込線から、汽車に乗った。
総勢40名。部隊名は「奈良部隊」。
この部隊編成の責任者の総務部庶務課主任の飯田奈良一の名前をとってこう名付けられた。
8月6日には、浙江省杭州市の筧橋に到着した。
ここが、寧波や衢州への細菌攻撃の基地になったところだ。
ここへくる途中、南京の1644部隊(当時は多摩部隊と呼んでいたが)へも寄った。
翌日南京からと海路ハルビンから各40名が合流。
8月の末には、「国民党航空学校」には、多摩部隊も入れて200名くらいの隊員が集まった。
自分は得衛生兵の見習いだったので、細菌戦の仕事には就かなかったが、9月になるとハルビンからペストノミの空輸が始まった。
ある日、空輸してきたノミを爆撃機に積み替える時に、失敗をしてノミが逃げ出すことがあって大騒ぎとなった。
あわてて殺虫剤を撒いたので滑走路の芝が枯れてしまったのを覚えている。
その爆撃機が寧波へ攻撃に行ったことは後で聞いた。
ここが寧波作戦の基地になっていたことは口には出さないが皆わかっていたことだ。
*日本軍人証言 731部隊航空班 沖島袈裟春 (1993年証言)
1940年の夏の暑い時だった。
おおよそ200名くらいいたと思うが、隊員が集合して杭州の「国民党航空学校」で、
寧波へ向かう爆撃機に菌液を積んだことがある。
ドラム缶に入った菌液を、ホ-スで飛行機の胴腹に取り付けてあるボンベへ注ぎ込むのだ。
自分がやったのは1回だけだが、それが寧波へ攻撃にいくことはなんとなくわかっていた。
菌液はペストかコレラ菌のどちらかだと思う。
その爆撃機が寧波で細菌を撒いたことは後で聞かされた。
増田美保中佐がもっぱらやったようだ。
*日本軍人証言 731部隊航空班 松本昭一
1940年8月ハルビンから重爆撃機に8人乗って杭州の「国民党航空学校」に着いた。
200人ぐらいがすでに居た。
寧波や衢州への攻撃に使ったのは97式軽爆撃機で2人乗り。
翼の下に2メ-トルくらいの細長い容器が取り付けてあり、その容器の中は10層に区切られていて、
それぞれに小麦、ノミ、フスマなどの穀物が混ぜて入れてある。
それを投下点に着くと、パイロットが爆弾を落とすときと同じようにレバ-を引く。
すると容器の前と後ろがパカ-っと開いて自然の風圧で中のノミと穀物が吹き出す。
その様子は、翼から煙が出ているようだった。これを低空からやりました。
じっさいに操縦して細菌を投下したのは、増田美保中佐と平沢欣少佐だった。
ある攻撃作戦の時、容器の後ろが開かなかったため前も閉めて、杭州の飛行場に引き返した。
ところが飛行場に着いたとたん、容器の後ろが開いてしまって、大量のノミが飛行場に飛び出して、大騒ぎとなった。
あわてて消毒したがラチがあかず、結局飛行機ごと燃やしてしまったこともあった。
菌液の場合は、太さ50センチ長さ360センチくらいの太いパイプを4本束ねて、その先に圧搾空気のボンベが取り付けてある。
そのパイプに腸チフス菌を詰め込んで、97式の重爆撃機に載せ、目的地に着くと、
胴体から機外へワイヤ-で繰り下げ、そして圧搾空気ボンベを作動させると4本のパイプに詰め込んである菌液が一挙にパ-っと噴出する。
まさに霧をまいた状態になる。
ところが、在る作戦で、ボンベが誤作動して1本分の菌が機内で吹き出してしまった。
乗り込んだ6人は全員腸チフスに罹った。
一番大量に菌液を吸い込んだ同期の鈴木公司はしばらくしてなくなってしまった。
*日本軍人供述 田村義雄 731部隊傭人(1954年9月8日中国での供述)
1940年7月上旬から11月上旬までコレラ菌,パラチフス菌,チフス菌の生産に携わった。
この期間生産されたのはチフス菌,パラチフス菌,コレラ菌,ペスト菌,脾脱疽菌で,その合計270Kgは飛行機で南京及び華中地区に運ばれ,
731部隊の柄沢十三夫ひきいる遠征隊が攻撃を実行した。
当時の中国の新聞を見てみます。
*時事広報 1940年11月6日
「愈県長・省衛生処技正と寧波入り」
ペスト撲滅の先頭に立つ
省防疫隊は明日にも到着
昨日の死者、伝染病院で11名、汚染地区で9名
皮膚ペスト患者は治療中
鄞県愈済民県長は、省で開かれた専員、県長会議に出席していたが、
鄞県政府からの電報で当地にペストが発生したとの報告を受け、
速やかに県政府に戻り、撲滅運動の先頭に立つよう要請された。
愈県長は、昨日朝、省衛生処技正王毓榛第3科科長とともに寧波に到着した。
本日はさらに2人の衛生処技正も到着する予定。
省防疫隊の30人余は、明日にも薬品を持って寧波に到着し、ペスト撲滅作業に従事する。
昨日は、ペスト汚染地区の患者と、非汚染地区に脱出した患者とを合わせ計20人にものぼった。
一方、汚染地区の範囲はまだ拡大していない。・・・・
甲南病院では死者11人
汚染地区から脱出し9名が死亡
皮膚ペスト相次いで発見
防疫治療に漢方医も参加
学校は休校、旅館は休業
各鎮で予防策を講じる
*時事広報 1940年11月7日
「鄞県のペスト、防疫に望み」
防疫処、昨日発足
1週間で死亡47人
省防疫隊、本日到着
以下省略
*寧海民報 1940年11月14日
(寧波発)寧波市東後街一帯で、今月初めにペストが発見されたが、
ペストは瞬く間に広がり、すでに多くの人が亡くなっている。
防疫処発足後、近く汚染地区を封鎖し、付近の人々を隔離し、ペストの予防注射を打つことになっている。
省の防疫班および中央防疫班が相次いで任務につき、寧波と奉化の間の交通は先日遮断された。
「浙江省金華市」
1940年11月27日 28日上空よりペスト菌散布
死亡者 160名
中国の新聞を見てみます。
*寧海民報 1940年12月4日付
敵機、金華上空でペスト菌を撒布
[金華発]敵機は連日、本県上空で度々白い煙を放出していたが、
(11月)27日午後には白色の物体をも投下した。
本県のペスト防除活動を視察していた省衛生処の陳処長がこれを目撃し、
許県長にただちに捜索するように要請した。
28日の空襲の際も、2機が南門の外で同様な白煙を撒布した。
白煙には魚の卵状の顆粒があり、車夫陳宝慶の人力車の幌の上に落ちた。
広合順皮革廠の職員がそれを集めて化学検査のため民衆病院へ送った。
病院職員沙士昇氏はグラム染色法でグラム陰性桿菌を検出した。・・・・
顕微鏡による鑑定で、その形態が確かにペスト桿菌に似ていることで見解が一致した。
以下省略
[吉林省農安県]
1940年6月~11月にかけて農安県城16ケ所でペストが発生しました。
551名が発病し、471名が死亡しました。
最終更新日:2014/12/28 9:45
前回は1940年の細菌戦の実態を書きました。
今回はそれを裏付ける日本の正式資料です。
参謀本部作戦課 ・井本熊夫中佐の業務日誌から1940年分を見ます。
メモに近い書き方で、しかも暗号のように書かれていますので、「注」として解説を入れました。
不明な字は■としました。
井本日誌 (1940年分)
5月31日
「ホ号」 注:「ホ号」と書かれた部分の左側に、参謀本部・陸軍省・支那派遣軍・関東軍の上層部の名前が書かれています。
「ホ号」とは細菌戦の意味ですから、陸軍全部が関係していた証拠でしょう。
参謀本部
沢田茂参謀次長・富永恭次参謀本部第一部長・岡田重一作戦課長
高月保作戦課作戦班長・荒尾興功作戦課員・谷川一男航空班長
松前末曾雄作戦課員・那須義雄編成動員課長・美山要蔵編成動員課編成班長
陸軍省
阿南惟幾陸軍次官・武藤章軍務局長・岩畔豪雄軍務局軍事課長
西浦進軍事課高級課員・松下勇三軍事課予算班長・他
支那派遣軍
西尾寿造軍司令官・板垣征四郎総参謀長・本多政材総参謀副長
井本熊男作戦主任参謀
関東軍
梅津美治郎軍司令官・飯村穣参謀長・秦彦三郎参謀副長・有末次高級参謀
中山源夫作戦主任参謀・他
6月5日
増田 荒尾と「保」を協議をした。 (注: 「保」「ホ」「ほ」「㋭」「O」は細菌攻撃の暗号です。)
実施時期は7月中
攻撃目標は浙かん沿線岸都市
実施部隊の指揮 支那派遣軍総司令部直轄
責任者は 石井大佐 (注:731部隊石井四郎の事)
実施方法 高度4000以上からの「雨下,ノミ」 (注:ペストノミを飛行機から雨の様に撒く事)
作戦に使用する飛行場は句容
6月28日
中央と「ホ」その他の連絡の為急遽上京することと決め(注:南京から)
7月2日
軍医学校に於て石井大佐以下と決定事項に関し確認的意味に於て更に一度打ち合わせを行
7月10日
荒尾興功作戦本部作戦課員と「保の件」で連絡
7月21日
午前石井部隊に於て「ホ」の打ち合わせのあと、
東京より命令下達するに付即時作戦の航空参謀上京すべき旨来電
杭州は思切りて偵察することに決心
7月22日
午前杭州に飛び斯要件偵察
旧(国民党の)中央航空学校を使用することに決定(注:現 杭州飛行場)
加茂部隊人員は残置(注:加茂部隊とは石井部隊のこと)
注:この作戦は延期になり改めて7月25日に関東軍からの「関作命丙第659号」 によって
奈良部隊(実施部隊)に人員武器器材の輸送命令が出ました。
(細菌戦用兵器ノ準備及び使用ノ廉デ起訴サレタ元日本人ノ事件ニ関スル公判書類 より)
この器材運搬に携わった陸軍軍属石橋直方の日誌
投下爆弾700発、自動車20輌、などを積んだ列車は
8月4日に南京の対岸浦口に着き、器材は船でいったん南京に運び込まれたのち、
8月6日に目的地の杭州市筧橋の旧蒋介石軍中央航空学校に運ばれた。
富永第一部長・荒尾作戦課作戦班員・美山編成動員課編成班長・松前作戦課員と
「ホ」についての連絡
最終更新日:2015/01/03 11:02
1941年は前年の作戦の結果をふまえ様々な改善をする時期でした。
そして9月16日大本営から常徳に対する攻撃命令が出ました。
[湖南省常徳]
1941年11月4日 731部隊と栄1644部隊(南京の部隊)が合同で実施しました。
日本軍機が1機、早朝5時頃低空飛行し、常徳市市中心部に,
粟、麦、綿などと共にペストノミを投下しました。
投下地点は市の中心の関廟街、鶏鴨港でした。
直ちに投下物を検査し、防疫対策がとられました。
約1週間後に11歳の少女が死亡。
遺体解剖の結果ペストと判明したが、早期の対策をした為ペストは沈静化しました。
しかし翌年春、ネズミから2次感染は始まりました。
2次感染、3次感染を含め公式記録では死者100になっています。
*2002年8月、東京地裁判決から
出動期間 1941年11月
出動場所 南昌~常徳
出動人員 40~50名
現地指揮官 大田澄大佐、碇常重大佐
使用細菌 ペスト
撒布方法 上空から撒く雨下作戦
死亡者数 7,463人
*中国側証言 広徳病院検査技師 汪正宇
投下物の一部がすぐ広徳病院に届けられ
検査の結果真性ペスト桿菌,疑似ペスト菌が発見された。
11日から高熱,そけいリンパ腫,敗血症等で死者が出始めた。
直ちに大規模な防疫活動を実施し,
一旦鎮静化したが数ケ月後から2次感染などで患者,死者が相次いだ。
*日本軍人証言 川島清 731部隊第4部細菌製造部長
(1949年12月25日、ハバロフスク裁判公判記録から)
注:長くなるため国家検事の尋問は省略して答弁のみ書きます。
尚原文はカナです。
質問は簡単に()内に入れます。
◎まず私が第731部隊に勤務していた時期に就いて述べます。
この期間を通じて第731部隊の派遣隊が中国中部における中国軍に対して兵器として
殺人細菌を使用したことが1941年に1度、1942年にも1度ありました。
◎第1回目は、私が述べました様に、1941年の夏でした。
第2部太田大佐が何かの拍子で中国中部に行くと語り、その時私に別れを告げました。
帰って来て間もなく,彼は私に中国中部洞庭湖近辺にある常徳市附近一帯に飛行機から中国人に対してペスト蚤を投下した事について語りました。
その様にして彼が述べたように、細菌攻撃が行われたのであります。
その後太田大佐は、私の臨席の下に第731部隊長石井に、常徳市附近一帯に第731部隊派遣隊が飛行機からペスト蚤を投下した事
及びこの結果ペスト伝染病が発生し、若干の患者が出たということに関して報告しました。
さてその数がどの位かは私は知りません。
◎(派遣隊の人数に就いて)40人~50人位です。
◎(地域の汚染方法について)ペスト菌を非常な高空から飛行機で投下する方法であります。
◎(爆弾投下なのか蚤の撒布か?)撒布によってであります。
[浙江省義烏市]
細菌戦は直接攻撃したときだけに被害が出るわけではありません。
攻撃した地域で一旦流行が収束したように見えても、
伝播が次々と広がり他の地域で数年たってから流行することがあります。
そのような例が浙江省義烏市です。
前年に浙江省衢州市で行われた細菌戦が130km離れた義烏市伝播したものと思われます。
1941年の秋に義烏市の市街地でペストが流行り始め約200名の人が死亡したといわれています。
そして義烏市の周辺の村々にも流行は広がり1944年まで続いたといわれています。
*被害者証言 陳知法さん
まず兄が熱を出し、リンパ腺が腫れ、喉が渇き、亡くなりました。
その後、父が発病して亡くなりました。
私は同じ家に住んでいましたが別の部屋にいました。
この病気に罹ったら、みんな怖くて医者にかかりませんでした。
兄も父も埋葬するだけで葬式はしませんでした。
埋葬は母が葬儀屋を呼んで1人で行いました。
私の家のまわりでも30人ぐらいの人が亡くなりました。
伝染すると怖いですから、誰も見ませんでした。
私の家は貧乏でしたから、その後の生計は母がたてていました。
[浙江省行政資料]
*浙江省第4区行政監査兼保安司令署上申す
字第273号民国 1942年1月22日発
注:1942となっていますが内容は1941の事です。
概要 本区義烏と東陽2県のペストの予防を治療及び近隣各県の防疫の状況を申上げます。
詮議の上、何卒よろしくお願い致します。
本区の義烏県市街区北門で、昨年(注1941年)10月8日にペストが発生した。
本署は通知を受け、直ちにペストが蔓延しないよう、義烏県には適切な予防と対策を行い、
かつ近隣各県には緊急に防疫に努めるよう電報で命令すると共に人員を派遣し指導に当たった。
以下、これらの県のペストの発生と防疫の状況について申上げます。
1 義烏
当県市街区北門13保で昨年10月2日に5匹のねずみの死骸が発見され、
その後毎日大量のねずみの死骸が発見されるようになり、
8日には住民2人が急死した。・・・・・
防疫経費不足のため、防疫計画にそった適切な対策を実行することができず、
又民衆の防疫知識不足のため、伝染病発生地域はにごとに拡大し、・・・・
昨年の12月の末までに118名の死者が出た。・・・・
今月5日に蘇渓鎮徐界嶺のペストが蔓延している地域の住宅20数戸全部を焼却し、
現在ではペストの勢いは弱まりつつある
2 東陽
当県の山岳地帯(魏山区)では、昨年11月25日にペストが発生し、
最初は八担頭村1村だけだったが、村の橋の所まで蔓延した。
その原因は、当地のものが義烏でペストにかかり逃げ帰り、
次から次へと感染したもので、昨年12月末までに40名が亡くなった。
以下省略
3 金華 省略
4 蘭谿 省略
5 浦江 省略
*浙江省第6区行政監察専員公署・保安司令部 代電
民国30年(1941年)8月25日 部字8号
事由 有毒細菌を撒布する敵の挑発に関する命令の伝達
各県県長、第1、2中隊長へ 黄省主席末廻勤電によると、
軍令部電報が、「報告によると、敵の特務機関長宮崎少将は
近々第1、第2両特務隊60人を召集して有毒細菌撒布を組織し、平吉少尉が率いる。
隊員の多くは華人と台湾人で、夜間船で寧波に行き、それぞれ有毒細菌を撒布する。
同隊はペスト菌、腸チフス菌、コレラ菌、ジフテリア菌などを携帯する。
隊員は商人に扮し、上海~寧波間の偽造イエズス会身分証明書を携えているとの事である。
これを注意深く摘発するよう命じられたい」
とのことなので、それぞれに打電するほか、所轄の県機関が一体となって
摘発にあたることが肝要であるとの命令を伝達するということであった。
注:宮崎少将は1940年12月2日に着任した上海特務機関長宮崎繁三郎のことで、
第13軍特務部との共同作戦を行う情報担当者である。
最終更新日:2016/02/01 14:47
*井本日誌 (1941年分)
1月15日
渡辺参謀から「ホ」の件
媒介物を欲す
補給手段
適当なる容器が必要(取扱を簡易にす)
実用の際航空部隊にやらせるか、特殊部隊とするか
重爆にて夜間攻撃にて奇襲的に実施するを可とすべし
2月5日
㋭の研究
作戦経過
将来運用法
仮想作戦方針
外国の非難等に対する責任を誰が負うか
医務局
中留金蔵・金原節三医事課員・渡辺甲一衛生課長・鎌田調医事課長
石井部隊
石井大佐・太田澄・山本参謀・福森・碇常重・金子順一・野崎
北支那防疫給水部
西村英二・板倉
2月7日過ぎ
北支現在の装備
14年秋 21万円 細菌兵器の研究に資する如く施設を始め9分通り完成
ロックフェラ-接収計画を樹立しあり
(注:中国名協和病院のこと)
「□□」と連絡しあり
彼は日本軍より利用するという意向を明示せば明渡すの已む無し考えあり
セイカ大学の建物位置共に格好の位置なり。
いまや米より支那側に渡しあり
軍との諒解は之から利用する如くつきあり
弾薬、5kgは現在の施設をもって製作可能なり
ノミの製産に援助し得る如く希望す
3月25日
早川少佐から㋭の確立の為雨下器 14万円の連絡
3月26日
石井部隊に行き研究を見
予算の問題 膨大すぎる
台湾、平房等に関する計画も膨大すぎる
9月1日
増田中佐から9月一杯に実施を希望す
之は実施することとす
9月5日
㋭に関する連絡
大体やる決心で行く
9月12日
㋭の件
大体之で行く
9月15日
㋭の件決定
9月16日
㋭の大陸指発令
11月25日
長尾(注:正夫支那派遣軍)参謀より㋭の件
11月4日 朝目的方向の天気良好の報に接し97軽1機出発
0530出発 0650到着
霧深し Hを落として捜索、H800付近に層雲ありし為1000m以下にて実施す
(増田少佐操縦、片方の開函不十分 洞庭湖上に函を落す
アワ36kg、その後島村参謀捜索しあり
11月6日 常徳附近に中毒流行
(日本軍は飛行機1機にて常徳附近に撒布せり、
之に触れたる者は猛烈なる中毒を起す
11月20日頃 猛烈なるペスト流行各戦区より衛生材料を収集しあり
(注:患者や死者から組織を切り取って集める事)
判決
命中すれば発病は確実
12月2日
宮野大佐から「常徳を中心とする湖南にては「ペスト」猖けつを極めあり」
12月22日
増田少佐より(ホ)
1.部隊の士気上る アワに対する自信
2.主要兵器 アワ第一
使用機 99式LB 百型偵察機
高空雨下の場合は航空炸裂弾
3.実施時期来年 6月以降 (8月 10月)
4.人員可能 ラット
30万手に入る見込,設備も大体可
5.20Kg作る為の装置は現在即可能
6.北支には石油缶2万あり
人と金あれば10-20Kgは出来る
中支は鼠に困る,(種ノミはある)
南支にも種鼠はある
7.ウヂ弾は7000(信□2000)あり
ロ弾(著地19000発)
ハ弾(1350発)
サニ弾(3000□□の為)
□□□□(1万3千円分必要
ウ弾(雨下用)3000発(同上)
最終更新日:2015/01/24 12:21
1942年4月18日、アメリカ軍はB25爆撃機で東京・名古屋等に空襲を開始しました。
驚いた日本軍は、爆撃終了後、B25が戻った中国の飛行場を破壊する計画を立てました。
これが浙贛(注:字が難しいので以降「浙かん」にします)作戦です。
*戦史叢書 昭和17・18年の支那派遣軍 防衛庁防衛研究所戦史室
浙かん作戦は「せ」号作戦ともいわれ、昭和17年4月18日のいわゆるド-リットルの日本本土空襲隊が、
着陸を予定していた衢州飛行場を始め浙江省の敵飛行場を覆滅するため、急遽、第13軍は約6ケ師団をもって5月中旬杭州付近から、
第11軍は約2個師団をもって5月末南昌付近からそれぞれ攻勢を開始し、遠く江西省東部まで進攻し、衢州、玉山、麗水等の飛行場を覆滅し、
浙かん線を打通するとともに、軌条その他各種軍需資材を押収、後送し、8月半ばから反転を開始し、9月末に終わった作戦である。
*第13軍第22師団砲兵第52連隊第2中隊の歩みから
作戦目的は浙かん鉄道沿線の敵兵力の撃滅。
衢州、玉山、麗水等飛行場の壊滅。
蛍石等の鉱物資源の獲得。
この作戦の期間は1942年5月~9月末です。
第1期 4月30日~5月29日
杭州、紹興、寧波を結ぶ線から蘭谿あたりまで侵攻
第2期 5月30日~6月15日
6月7日に衢州を占領。あとにここに現地司令部を置いた
第3期 6月16日~8月14日
最南端の広豊・広信まで侵入し駐留
第4期 8月15日~9月30日
反転作戦
*第13軍作命第176号、第179号
軍は8月×日主力を以て反転を開始し、
随時反撃の態勢を保持しつつ一挙に衢県附近に兵力を集結せんとす
・・・・・×日を8月19日と定む
*大陸命666号
金華要塞を確保せよ
日本軍は5,000人の部隊で金華、永康、縉雲、麗水から雲和まで侵行しましたがうまくいきませんでした。
その後ここで日本軍は細菌戦を実施しました。
*2002年8月、東京地裁判決から
出動期間 1942年7月~8月
出動場所 杭州~金華
出動人員 60名
現地司令官 石井四郎少将、村上隆中佐
使用細菌 ペスト・コレラ・炭疽菌
撒布方法 穀物に混入して撒く
死亡者数 2,386人
この細菌戦は秘密の作戦だったため、
知らされていなかった通常の日本軍は汚染された地域に踏み込み多くの被害を出しました。
日本軍の1万人がコレラ・赤痢・ペストに感染し、1200人以上の兵士が死亡しました。
*日本軍人証言 川島清 731部隊第4部細菌製造部長 (1949年12月25日、ハバロフスク裁判公判記録から)
長くなるため国家検事の尋問は省略して答弁のみ書きます。尚原文はカナです。
◎1942年6月第731部隊長石井中将は、部隊の幹部を集めて、近々中国中部派遣隊が編成され、
これは細菌兵器の最良の使用方法の研究に当るはずであると我々に語りました。
この派遣隊は、日本軍参謀本部の命令によって編成され派遣されたものでその主要な目的は、
いわゆる地上汚染方法、即ち地上における細菌の伝播方法の研究でした。
ついで、中国中部に特別隊を派遣することを命じた関東軍司令官の命令が出ました。
その命令に基づいて、第731部隊長石井中将は、部隊の幹部を集めて、
実際上如何にこの派遣を行うかについて打合せをし、その際この派遣隊工作の実施計画の作成は、第2部長村上中佐に命ぜられました。
この特別隊の人数は、100名から300名までになる予定でありました。
そして、ペスト菌、コレラ菌、パラチブス菌が使用されました。
6月の末から7月の初めまで、派遣隊は数班に分かれて、飛行機及び汽車で南京「栄部隊」に派遣されました。
派遣隊の細菌工作は、中国中部における日本軍の浙かん作戦と平行して行われる筈でした。
作戦の時期は7月の末と指定されました。
しかし、日本軍の戦略的退却を意味していた浙かん作戦の実施が若干遅れたことに鑑み、この細菌作戦は8月の末に行われました。
第731部隊のこの中国中部派遣は「栄」部隊を基地とし、同部隊に拠点を創設しました。
細菌作戦は、玉山、金華、浦江の諸都市付近一帯で行われた筈でありました。
この作戦が終了した後、中国人に対してペスト菌、コレラ菌、パラチブス菌が撒布方法によって使用された事を私は知る様になりました。
ペスト菌は蚤によって伝播され、他の細菌はそのままの型で貯水池、井戸、河川等々の汚染によって伝播されました。
細菌作戦が全く計画的に実施され、完全に成功したことを知っていますが、この作戦の結果に関する詳細は、私には不明であります。
作戦が成功したことは石井中将の言によって知っています。
◎(第4部の役割は)第4部は第731部隊の派遣隊に細菌を確保せよという任務を受け、これらの細菌は130kg準備され、飛行機で中国中部に送られました。
◎(細菌の種類は)我々はパラチブス菌と炭疽のみを製造しました。
◎(梅津大将の命令書を自分で読んだか?)はい、読みました。
*日本軍人証言 榛葉修 栄1644部隊九江支部 国民党戦犯裁判資料
42年6~7月浙江省金華付近を中心に、コレラ、チフス、ペスト、赤痢を撒布した。
中国軍の撤退は大変速やかで、日本軍は撒布地域へ入りその地に宿営した。
そして付近の水を飲用した結果多数の者が感染し、伝染病にかかった。
その結果杭州の日本陸軍病院は、日本軍兵士の伝染病患者で一杯で毎日3名から5名は死んでいた。
8月には病院の内も外もアンペラを広げて数千人を収容していた。
患者10000人以上死者1700人以上出してしまいました。
*日本軍人証言 通常部隊の歩兵 嵐兵団歩兵第120連隊史
注:一般の日本兵は細菌戦を中国の作戦だと思っていたようです。
目指す衢州方面は、ペスト・コレラなどの悪疫が猖蕨獗を極めているとのことで、
三種混合注射とかホ-ソウの接種を繰り返し受け、
ほとんどの兵隊は化膿高熱で戦争前に病魔との闘いであった。・・・・
悪疫の流行に加えて敵の毒物謀略
(飲料水、飲食物に毒物を入れて飲食者の毒殺を計る)に対する警戒が幾度か報ぜられ、
弾丸で死ぬか毒で死ぬか、戦々兢々、食事に箸をつける前に
色、匂い、味、煮炊きしたものかどうかなど吟味もまた戦争の一片であった。・・・・
敵と戦い、水と戦い、そして「ペストあり」の貼り紙に驚かされながら、
最終目的衢州に肉薄したのは6月の中ごろであった。
*作戦各期の日本軍人死亡数 第13軍司令部浙贛(せ号)第4期作戦経過概要
注:病気で死んだものも戦死者に一部含まれる
戦闘より病気のほうが圧倒的に多い
*日本軍人証言 古都良雄 731部隊員 ハバロフスク公判資料から
私が参加した派遣隊の業務は、何かといいますと、
貯水池、河川、井戸、建物をチフス菌及びパラチフス菌によって汚染するという細菌攻撃でありました。
第731部隊は第4部で大量生産したこれら細菌をこの派遣隊に送りました。
細菌は、ペプトン用のビンに詰められていました。
これらビンは「給水」と表書きした箱に詰められていました。
これらは飛行機で南京に送られました。
私は細菌を充填した水筒を井戸、湿地、住民の住居に投げ込むことに参加しました。
当時そこには総数約3000人の中国軍の捕虜の収容所が2つあり、3000個の特製饅頭が製造されました。
饅頭の製造に派遣隊員が参加し、注射器で細菌が注入されました。・・・・・・
(命令で製造したビスケット)は卵形のものと細長い形の2種類ありました。
それは小麦粉で作られ、饅頭同様、細菌で汚染されました。
それはこのビスケットがどんなビスケットかをあらかじめ警告された兵士に渡され、
兵士は垣根の下、木の下、休憩地に置き忘れたかのように置きました。
その数は300個ないし400個であります。
[雲南省]
*証言 被害調査員 陳祖梁
1942年5月初め日本軍は「昭和17年ホ号作戦」に基づいて
雲南省昆明、滇西、保山を細菌戦第一重点目標にした。
柳瀬大尉が操縦する731爆撃機が昆明に細菌戦を行う一方で、
5月4日、日本爆撃機54機が保山を爆撃し、3~4百の爆弾、細菌弾を投下した。
数日後再び、保山付近の施旬の賑やかな町に細菌弾を投げた。
日本軍が投下してから数日後、保山、施旬にコレラが爆発的に流行し始めた。
たった2ケ月の間に保山でコレラに罹って死んだ人は6万人、施旬ででは1万以上に達した。
コレラは保山、施旬、昆明への道路に沿って蔓延していった。
そして雲南58の県市でコレラが流行発生した。
コレラの患者は12万人以上、死者は9万人以上だった。
日本軍は滇西を占領後、駐屯した防疫給水部はネズミを収集し、細菌を培養し、生体実験をおこなった。
撤退する前の日、感染したネズミを放ち細菌戦をおこなった。
これにより滇西16県でペストが流行し、死んだ人は焼く45万になり、
この2つの細菌戦で雲南では13~14万の民衆が殺された。
[浙江省雲和県]
1942年8月26日、 日本軍飛行機が2日間にわたって爆撃をしました。
その時かなり不発弾が多かったのが不思議がられていましたが,実はそれらが細菌弾だということは後でわかってきます。
翌年から市内各地でネズミの異常行動や死骸が見られるようになりペストが発生してきました。
懸命の防疫活動や汚染地域の焼却にも拘らず被害は拡大し、赤痢や脳膜炎等も発生してきました。
1945年夏には飛行機で綿花,あめ,ビスケット,おもちゃなどを投下しこれによって肺ペスト、敗血症型ペスト、皮膚型ペスト等が流行しました。
被害 浙江省防疫センタ-の統計によると雲和県では1943年から1945年でペスト等伝染病の
発生地点は183ケ所 患者2740人 死亡者1045人
又,雲和県の資料では、ペスト患者745人 死亡者537人ともなっています。
*証言 李洪波
7月に地上戦に失敗した日本軍は、
8月26~27日、雲和市街及び近郊への空爆を開始し、同時に5平方キロの市街地に多量の細菌爆弾を投下しました。
明け方の朝霧の中3機の日本軍機が爆弾を落としましたが、不思議なことにこれらの爆弾は衝撃を受けたのにもかかわらず爆発しませんでした。
恐らく細菌爆弾だったからだと思われます。
浙江省防疫センタ-の統計によると、1940~1945年でこの県でペストが発生した地点は183ケ所、
ペスト。赤痢を含む伝染病感染者は2,740人、死亡者は1,045人となっています。
また1943年~1945年でペスト患者745人、死亡者537人とも報告されています。
間もなくして雲和県の町ではいたるところでネズミが死ぬなど異常な現象が多く現れた。
その後ペストが流行しました。
[浙江省麗水市]
あまり知られていませんでしたが、1997年からの「明らかにする会」の調査で
麗水での細菌戦が少しずつ知られてきました。
1942年から始まりましたが、期間が長いので一つの項目にします
季刊戦争責任研究第27号の手塚愛一郎論文を引用します。
麗水での細菌戦
注:使用された細菌の種類が多いことが特徴です。
日本の敗戦後にも被害が出ていますが、潜伏後の再流行だと思われます。
麗水各地の被害の内容
*天寧寺での被害
天寧寺は城関鎮から車で20分ほど、現在は市街地の外れの一角になっている。
麗水飛行場の北側に位置し、日本軍はこの幹線通りを使い麗水から撤退した。
天寧寺には、1942年9月まで日本軍が駐屯していた。
日本軍の撤退とともに、高熱やリンパ腺が腫れ、悪寒をともなう病気が発生した。
それまで天寧寺ではこうした症状の病気はなく、
症状から見てペストによる細菌戦が行われたと考えられる。
ペストは9月に発生し、12月まで流行が続き、天寧寺、官屋基、和尚崗等で計62名が死亡した。
この3つの村の当時の人口は140名程度であるから人口の半数近くが犠牲になっている。
*水東村での被害
水東村は、麗水飛行場の東部にあり、車で10分足らずの距離にある。
すぐ近くには現在の麗水駅がある。
水東村には42年、日本軍が撤退したことがあり、村人は日本軍の侵攻とともに山に逃げた。
日本軍の撤退後、下痢、嘔吐、けいれんなどをともなう悪性の伝染病が発生して、70名余りが死亡した。
当時の人口は400名余りである。
水東村には村の入り口と出口に2つの井戸があり、
村人は村の中心を流れる河川の水を生活用水として使っていた。
コレラと思われる伝染病は、この河川沿いを中心に発生している。
*青林村での被害
青林村は麗水飛行場の東北にあり、やはり車で10分~20分ぐらいの距離である。
日本軍は駐屯していなかったが、連日のように日本軍が入ってきて食料を略奪していった。
国民党軍は青林村にあった廟を弾薬庫として使っていたため、
日本軍は抗日の村と考えていたのではないかという。
日本軍は撤退するとき青林村を焼き払っていったが、
その後にはビスケットやごはんの固まり、調理済みの豚肉等が置き去りにされていた。
ごはんのかたまりを持ち帰り、子どもに食べさせたところ、
翌日から下痢と嘔吐を繰り返し、2週間後に死亡した。
田にも高熱や下痢の症状で村全体で60名余りが死亡した。
また、近くの畑等で作業をしていたところ、足等に潰瘍ができたという
炭素菌被害ではないかと思われる証言もある。
*小木渓周辺の被害
小木渓は城関鎮から車で1時間弱の距離である。
この周辺には1942年と44年の2回、日本軍が来ている。
高熱、けいれん、リンパ腺の腫れなどペストと思われる伝染病が発生したのは、
小木渓だけが42年、その他の麻地脚、朱田背、白嶺脚、大坑口等の地域はそれぞれ44年である。
小木渓では、22名、他の地域では25名が死亡している。
*前垟での被害
42年日本軍が侵入したとき、国民党軍前垟を通って雲和に撤退した。
前垟に日本軍が駐屯し、42年8月に撤退した。
その後、10月までペストと思われる伝染病が流行した。
以下省略
[浙江省玉山市]
浙かん作戦は9月末で作戦を終了し、金華に向けて撤退しました。
その時に細菌を撒布して撤退しため被害が出ました。
それが、玉山、江山、広豊です。
8月19日,日本軍の撤退時にペスト・コレラ・パラチフス・炭疽・マラリアと思われる菌を散布し,
井戸に投げ入れ,空より投下しました。
死亡者 300人
*被害者証言 祝腮菊さん
日本軍は玉山から撤退する時、井戸に細菌の入った灯油缶2個を投げ込んだ
この井戸を使っていた村人の大半が嘔吐、下痢、身体中に潰瘍が出来て死んだ。
同じ時、日本軍機はノミも大量に落とした。
私の家族は13人のうち10人が死んだ。
*証言 元 衛生兵 古郡良雄
玉山周辺でチフス菌とパラチフス菌の入った水筒を貯水池,河川,井戸,家屋に投込んだ。
また3000人の中国兵捕虜に細菌入りまん頭を食わせて釈放。
細菌入りのビスケット等を日本兵が置き忘れたかのように木の下、休憩地などにばらまいた
[浙江省江山市]
1942年8月、日本軍は江山市を撤退する時、7つの集落にコレラ菌入りのモチやマントウを配ったり道に置きました。
野良仕事に出て不在の家には、道端にカゴに入れて置いた。
これを食べた村人は激しい嘔吐と下痢に苦しみ老人や子どもを中心にして100人近い人が死んだ。
また日本軍は井戸に細菌入りの瓶を投げ込んだり、米に細菌を付けたりした。
死亡者 82人
*証言 江山市路陳村 鄭蓮妹
8月退却時にここを通った日本軍は,さも自分たちが置忘れていったかのように,
月餅の沢山入った竹籠を置いて入ったのだ。
村人は食べるものが少なかったので,持帰って食べた。
私の家では食べた3人がその夜次々と腹痛に襲われ,
翌日の夕方下痢と嘔吐で苦しんだ母が死んだ。
それから叔父も弟も死んだ。
当時この村の人口は25人だったが,10人以上も死んだ。
*証言 同じく 頼清泉
日本軍が江山から撤退する時に,中国人を手先に使って,米のおむすびを配った。
街に出ていた母はそれを3人の子供たちに食べさせた。
子供思いの母は自分が食べないで子供に食べさせたのです。
そして母は助かり,私の兄弟(9歳,7歳,4歳)は死んでしまった。
私はその時日本軍の使役をしていて留守だった。
*被害者証言 鄭蓮妹さん
私の家の前の道ばたに餅がたくさん入った竹カゴが置いてあった。
当時、村人は食べるものが少なかったので皆で分けて食べた。
私は口に入れたが、嫌な臭いがしたのですぐに出した。
食べた叔父、母、弟たちは激しい下痢と嘔吐で苦しんで死んだ。
[浙江省常山県]
1942年日本軍が撤退時コレラ菌等を散布しました。
1943年に死亡者 1506人
2次感染で1944~1946に死者 5000人
[江西省広豊市]
1942年8月19日 日本軍撤退時にペスト菌散布しました。
死亡者 数十名
*被害者証言 祝秀菊
1942年8月、日本軍は撤退する時にペスト菌を撒いた。
町の中心街の東街田里では数十人がペストで死んだ。
私の夫も腋の下のリンパ腺が大きく腫れ、
高熱で苦しんだ末に死んだ。
[浙江省義烏市崇山村]
ここは直接の攻撃ではなく、前年の義烏市の伝播による発生だと思われますが、
9月に飛行機で撒布したという証言もあります。
1942年9月ペストが大発生し、多くの村民が死亡しました。
1998年5月の調査時点では、この時の約3ケ月で396人が死亡していたことになっています。
1940年の衢州市への細菌戦から見ると3次感染でしょう。
10月中旬に南京の1644部隊が村に入り、村民に注射をしたり、人体実験を行いました。
日本軍は村に火を放ち財産もろとも焼却しました。
*証言 応国元 義烏市地方疫病防止弁公室主任
1942年11月16日、日本軍がペスト防疫という名目で
トラック2台、100名ぐらいでやって来ました。
日偽軍(日本に協力する中国軍)も出動して
崇山村を包囲して機関銃によって無防備な一般村民を銃殺しました。
民家にガソリンをかけて、あるいは薪や枯れ草に火をつけて燃やしはじめ、
民衆を家から駆り出しました。
焼却した民家は400軒あまり、死亡者数400にんほど、これは義烏県史による記録です。
この焼き打ちの前にペスト感染がありました。
*被害者証言 王栄良 崇山村元書記
1942年9月になって白い煙を吐く飛行機が村の上空を西から東へ村の上空を飛んだという人もいます。
何日かして死んだ鼠が見つかるようになりました。
最初に死んだのは王化樟です。9月5日です。発病して4日で死にました。
(注:中国の旧暦です。西暦では10月14日です)
我々のむらでは19世帯で発病し、その全員が死亡し、毎日死体が家の外に出されました。
私の家族11人のうち8人がペストで死んだ。
全員が腕の付け根、首のリンパ腺が腫れ、高熱で苦しんで水をくれ、水をくれと叫びながら死にました。
叔父は頭からすっぽり白い服を着た日本兵に注射を打たれました。
日本軍は10月(旧暦)頃、家に火を放って燃やしました。
*被害者証言 王潤華
当時、私も発病しリンパ腺が腫れあがり高熱で苦しんでいました。
しかし、父親から林山寺に連れて行かれると
腹を切られるという話を聞いていましたので敢えてペストにかかたと言わないでいました。
*日本兵証言記録 第86連隊H軍医
南京防疫本部から将校以下の調査団が来隊。
護衛の兵隊までペスト防疫衣という白装束、眼だけ出しゴム長を履いて部落へのり込んだ。
病人はみな鼠蹊部のリンパ腺が手のひら大に腫れている。
調査隊は新しい墓地から死体を掘り出し、顕微鏡下にペスト菌を見たときは何ともいわれない恐怖感に襲われた。
部落は焼却し、調査隊は意気揚々と南京へ引き上げた。
*日本兵証言記録 近喰秀大 栄1644部隊第1課
医学と心理学のかけ橋に関する回想「防疫医学第19巻第11号 1972年」から
昭和17年10月中旬、中支浙江省義烏県松山部落(注崇山村のこと)に不明疾患の爆発的発生があり、
急速に拡大の傾向が見られているとの報告に接した。
わたくしはその頃南京の防疫本部に勤務していたが、軍命により急いで臨時防疫隊を編成し現地に赴いたのである。・・・・
部落民の総数は約3,000名で、この1週間以内に不明疾患に100名近く罹患し、30名近く死の転帰をとったということであった。
路地をはさんで各家の戸は堅く閉ざされ、扉の上や周囲の壁には煤や朱色の手形の印が塗りつけられ、
所々に疫神と書かれていた。
静寂で陰気な雰囲気につつまれて、何処からともなく選考の臭と煙の流れとが漂ってきた。
*日本兵日記 林篤美 中支那派遣軍軍医 1942年分
11月7日
高山中尉の調査せる情報によると、義烏西南10キロメ-トル松山(注崇山村のこと)付近にペスト患者発生しある模様にて、
本朝8:30出発、4中隊より長以下5名の護衛をもらう。12:00松山着。・・・・
種々と調査せるに、細菌1ケ月間に高熱、リンパ腺腫脹を伴い、2~7日にて死亡する流行病あること確実にして、略々ペストと認められる。
住民の先導にて1民家の農民の細君を診る。
左側鼠頚部及び股リンパ腺鶏卵大腫脹あり、2週間前より痛みありと。
11月11日
・・・・夕刻、突然南京防疫給水本部より近喰大尉、伊藤大尉等約20名来隊。将校3名、将校宿舎泊。
ゴタゴタする。
11月16日
10:00~11:00診断。
下士候隊に妙な××の患者を発見。
花柳病は全く否定す。
現在の状況にてはpestを疑うこととし、発生家屋を遮断する。
午後2~4時、防疫会議。
第3防疫給水部長山下大尉来隊。
会議の結果、結局松山部落は焼却することに決定。
本日正午、松山村に発生せる不明伝染病は「ペスト」と決定す。
師団軍医部原少佐来隊せらる。
最終更新日:2015/01/31 12:20
1942年になると、米軍による空襲が始ったため,その発進基地を叩くために細菌戦も増えます。
作戦目的は「浙かん鉄道沿線の敵兵力の撃滅です。
*衢州,玉山,麗水等飛行場の壊滅。蛍石等の鉱物資源の獲得」
(第13軍第22師団砲兵第52連隊第2中隊のあゆみから)
作戦期間は4月30日から9月30日の5ケ月で4期にわけました
この作戦には南京の細菌部隊 栄1644部隊の多摩部隊が参加していました。
まず井本日誌、それから沢田茂中将日記を見てみます。
*井本日誌 (1942年分)
3月18日
「バタン」に対する㋭の件
東京1月 300kg-使用せば東京にて作る必要ありべし
「ハ」は南京、能力小なり
MC又はその他の輸送機2機を必要とす
これに必要なる人を十数名必要とす
「マニラ」に50-100名を置くこと(総、東京、関東軍より)
1000kg位を10回位必要?爆弾300発あるべし
(バタ-ン半島にいる米・フィリピン軍に対する細菌攻撃です)
4月12日
昭和17年㋭号指導計画
1.攻撃目標
イ.昆明
ロ.麗水・玉山・衢県・桂林・南寧(沿岸飛行基地)
ハ.サモア(撤退する場合)
ニ.ダッチハ-バ-
ホ.豪州要点
ヘ.カルカッタ
5月27日
㋭ 下打合
石井四郎少将・村上隆中佐・増田知貞中佐・小野寺義男中佐 ・田美保少佐
1.機密保持に注意する事
2.編成装備を具体的に計画すること
3.飛行機は「新散布器をつけた」99式双発機
4.本年使用可能な菌は
C(コレラ),T(チフス) 中出来
PA(パラチフス) 上出来
P(ペスト) 1/1000万ミリグラム迄向上せり
5.ペスト菌現在量は
平房2キロ
南京1キロ(ネズミ不足)
その他1キロ 合計4キログラム
6.友軍の感染防御と機密保持のため2個班をつけること
関連して石井少将からの要望
1.731部隊の細菌製造機関を増強すること
2.細菌戦実施のための中央機関を編成すること
3.国際連盟は放っておく事
4.軍医学校と731部隊の要員を中支那派遣軍に配属すること
5月30日
参謀本部に石井少将・村上中佐・増田中佐・小野寺中佐・増田少佐が招集
[参謀本部]第一部長[田中新一少将]より大陸指及注意伝達
(注:細菌戦実施の指令と注意が伝達された)
6月29日
増田中佐と連絡
ふ号(注:細菌戦用の風船爆弾のこと)
証拠隠滅の公算70%
部隊を作ること
50k以下なら精度相当に大
人事の件
7月6日
碇常重中佐来
支那㋭は準備出来た
天候之を許せば常時進出可能なり
7月15日 (注:支那派遣軍の中で細菌戦に対する意見対立がみられます)
後宮淳総参謀長-「兵害予防に対し特に懸念」
畑俊六総司令官-「(アメリカ軍が進出した)桂林.衡州に対し攻撃しては如何との意見」
沢田茂第13軍司令官-「稍々消極的…」
住民の侵入後を狙う如く無住地帯に施策す
(注:住民が逃亡した無人地帯に細菌を撒いて戻ってきた住民が 感染するようにする)
餅不足(注:ネズミが足りない)
実力攻撃は8月中旬以降と予定す
具体的には示されあらず
要するに㋭に対して信頼を持たず、厄介視ある現況なり、
将来相当に考慮せざるべからず
7月26日
石井少将閣下と連絡
(細菌戦の)Xデ-は8月20日の公算大
8月28日
長尾参謀からの報告「㋭ の実施の現況」
1 広信 イ.ペスト毒化ノミ
ロ.ペストを野ネズミに注射して放す
広豊 イ.ペスト毒化ノミ
玉山 イ.ペスト毒化ノミ
ロ.ペストを野ネズミに注射して放す
ハ.米にペストの乾燥菌を附着せしめ,鼠-蚤-人間の感染を狙う
江山 a.コレラ菌を井戸に直接入れる
b.食物に附着せしむ
c.果物に注射
常山 江山に同じ
衢県 チフス,パラチフス ノミ
麗水 チフス,パラチフス ノミ
10月2日
次長電に依りて飛行機に依り実施する事は当分の間延期すべき旨
(注:中国政府が日本の細菌戦を非難しはじめので参謀次長が延期命令を出したようです。)
10月5日
(浙かん戦における)地上実施に冠する実情
ペストその他はまず成功?
衢県T(チフス)は井戸に入れたるも之は成功せしが如し(水中にてとける)
次の沢田中将の記録を見ると沢田中将は細菌攻撃にかなり批判的だったことが 分かります。
*第13軍司令官・沢田茂中将陣中記録
(自衛隊防衛研究所 1942年分 静岡大学名誉教授藤本治氏論文から)
5月28日
乗馬にて諸曁を出発 蘇湲鎮に向う 義烏は細菌迄ペスト流行しありしを以て
同地の宿営を避け蘇湲鎮となしたるなり
6月16日
辻中佐(注:参謀本部作戦班長辻正信のこと)の言によれば
大本営は当方面に石井部隊の使用を考えあるが如し
反対なる旨開陳しおけり
日支関係に百年の痕を残す且つ又利益なく我方防疫の手続きだけも厄介なり
山中田舎の百姓を犠牲にして何の益あらん
6月18日
衢州司令部より得たる書類によれば、衢州は昨年迄にペスト大流行しありし事明瞭なり
防疫緊急の要事となれり
6月25日
石井部隊の使用、総軍よりも反対意見を開陳せしも、大本営の容るる処とならず
大陸命(注:天皇の命令)を拝したり、とならば致し方なきも、作戦は密なるを要す
苦き作戦□□人選を抑える処に総軍の力なかるべからず
遺憾なり
6月26日
軍の反転開始を7月末日とす
7月11日
石井少将連絡の為来着す
其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し
効果なく弊害多き本作戦を何故続行せんとするや諒解に苦しむ
蓋し王者の戦をなせば可なり
何故こんな手段を執るや予には不可解なり
されども既に命令を受けたる以上実施せざるべからず
(注: 細菌作戦が天皇及び軍上層の命令だったことがわかります。)
仍って次の3点に就て特に注意せしむ
1 秘密の絶対保持
2 □□の予防(注:自軍への感染と思われる)
3 飛行場は攻撃を向くる事
7月12日
石井部隊の行動要領を幕僚にて研究したる結果によれば到底秘密を保持し得ざるが如し
仍って作戦主任に命ずるに 石井部隊の行動を単に其の観察に一任する事なく
機密保持の見地より如何に行動せしむべきかを戦術常識にて研究決定すべきを命ず
8月16日
X日(注:大規模な細菌戦開始に日)を8月19日と定むる旨 命令す
8月22日
午前8時半より衢州飛行場破壊の状況を視察す
25日終了の予定
それ迄の使用延べ人員約10万にして 内半数は俘虜なり
9月3日
22師団の減員頗る大にして師団の半数は杭州地区の□□□□病院に在りて戦力著しく減少しあり
因って22師団の広報残置兵力が追及し
同師団の戦力恢復実現する迄軍主力は金華付近に留まるべきものと思考し
今朝参謀長へ之を明示す
(注:22師団が自軍の細菌に感染して戦力低下しているのです)
9月16日
午前第70師団司令部の初度視察を行ふ
引き続き同師団野戦病院、第40師団野戦病院、杭州陸軍病院の患者を見舞ふ
杭州陸軍病院長の報告によれば同病院の収容患者総数12,000余、
内空輸3,900、水路輸送7,000にして その治療に及ぼしたる影響は極めて良好
特に空輸は良好の成績を挙げ・・・・
以下省略
最終更新日:2015/02/07 12:18
これまでの細菌戦で実験成果を上げる事に成功した軍は1943以降は細菌戦をあまり実施していません。
勿論中国をはじめとする国際世論の影響もあると思われます。
しかし細菌戦そのものはおこなっていませんが、前年までに撒布して流行したペスト菌が各地に伝播して被害は出ています。
中国の浙江省がまとめた1943年度、ペストに関する統計です。
*浙江省1943年度ペスト感染者と死亡者統計
注:1943年は金華、武義、東陽、義烏は日本の第13軍支配下のため統計には入っていません
最終更新日:2015/02/21 11:28
ここでは井本日誌ではなく、1937年8月から陸軍省医務局医事課員になった金原節三大佐の陸軍省業務日誌摘録を参考にします。
金原摘録
4月11日
(731部隊の)指導方針は軍紀風紀の確立、
研究成果の向上、作戦準備の完成に置く
1943年度の研究事項
(第1部)基礎的諸元の研究。溢血熱の研究。4種混合の改良
発疹チフスワクチン
(第2部)攻撃
(第3部)昆虫の駆除撲滅。防疫実施法の研究
(第4部)菌の大量生産。血清
(資材部)試験動物の需給計画
(治療部)保菌者の治療法研究
4月17日
ホ号打合せ(参本にて)
各防疫給水部の報告
(北支)
粟100g、餅1,000。 9月末100kgの粟生産可能
但し餅の追送を要す(計2万ケ、月々漸増)
(注:ノミの生産の為にネズミを増やすことです)
イ 餅の輸送の場合、船便による時は船待(神戸4日)の関係上
相当の資料を要するのみならず、これがため3割の損耗を生ず。
ロ 研究を主体とし格好の試験所を獲得せり
(保機、防諜上も適当なり)
ハ 葡萄糖を使用し餅の節約となる。
約1/2の数で可能なり。
その粟の卵の保存法を研究し好結果を得たり
ニ 砂ネズミ(蒙古)
(中支)
イ 粟の生産、毒化を研究中。
現在量5kg(餅を2万匹補給すれば2ケ月後15kgになる)
期日を3ケ月前に予告されたし
AT1機4,000、暑気には弱し
ロ 餅に3週間後にする法が最も良し。
人血では減少。低音保存は不適。
ハ 米に対する攻撃(さんかめは虫)。
使用前1ケ年を要す。人工増殖は困難なり。
ニ 粟の生産関係者を他に出さぬ様配慮せられたし
ホ 輸送10日以上にわたる時は不可
(関東軍)
どぶねずみトラッテとの混種を作りあり。増殖力大なり。
野ネズミには間々ペスト菌あり。
又野ネズミには犬じらみ、他の粟その他の虫を有し防諜上も不可なり。
(南支)
イ 餅、月1万ケ。月産10kg。7~8は発生不良。
5,6,9,10が良し。
ロ 2月は補給現在迄2万
ハ エヂプトヌマネズミの2代目を作り、粗暴性緩和す。
飼育馴化しあり。自変種にかわりつつあり。
ニ 葡萄糖を利用する等2/3の節用をなしあり。
(南方軍)
イ 昨年9月より研究を開始す。
ケオピス粟は南方において発育良好なり。繁殖力も大なり。
ロ 南方では山稜地区に肺ペストあり(気温15℃)、海岸には腺ペストあり。
一般に四季を通じ散発しあり。
ハ 南方のケオピス(ペストノミ)は硬度大なり。熱に対する抵抗も強し。
アスファルト道路(45℃)では1分間で死亡するも、草原その他では2日以上生存す。
ニ 原法。使用場所小。使用人、餅麦。増殖率小。
改良第1法 南方に適
改良第2法 保存適
ホ 捕鼠は捕鼠器の約1割弱(南方1年を通じ同率で捕獲し得)。
北方は時季により異なる。
ヘ 南方では気候の関係で四時増殖に適す。
雨と日とを避ければ到る所飼育場となる。
ト 北方より輸入の鼠は馴化に1ケ月を要す。
チ 餅種を1回輸入すれば、あとは現地自活も可能なり。
リ 人員265名を要す。50kgの生産可能なり
会議はそのあと真田参謀本部作戦課長が話をし、懇談に移りました。
懇談の内容です。ネズミの補給に就いての懇談です。
(医校)
1 粕壁付近が主力となる。
1軒30。4千軒で1組合(親1匹1ケ月2匹)。
本年度予定埼玉47.5、茨城20.4、栃木6.45、計74.45万
2 埼玉県に飼料を補給せば20万増産可能。
茨城県、栃木県は指導強化により10万程度増産見込み、
最大産出見込100万
3 輸送の円滑にゆくのは関東軍のみ。
南方軍には種を補給す。
北満、南支特に予定せず。
次に1941年11月から同医事課長になった大塚文夫大佐の備忘録を参考にします。
大塚備忘録
11月1日 医務局会報 ホ号報告要領(石井少将)
10月19日参本より要求
結論
井本案 12000名 600万 1.2億万円
真田案 編成6000名 月200万餅 6000万円
(頂点に達せる場合)
縮小案 2000 月60万 1200万円
この案は現在あるままの案 効果はあまり期待できぬ
軍事課:やるかやらぬかわからぬ 攻防案立策が問題
軍事課で課長以上に一席設け話をしたしとの事
対米英戦に対する判決(石井)-軍事課に提出せる
攻撃多量 先制
(中略)
国際的の問題を遠慮する事なし
◎米国捕虜 黄熱のワクチン注射をなしあり
意見 1 北中南、南方統合せしめたし
2 南方防疫給水部改編、実施されたし
3 地区内防疫委員会 防疫隊
効果 効果あり
ホ号による患者、77~90%は死亡す
研究
ビルマ、印、支那、ニュ-ギニア、オ-ストラリア、島嶼その他
機 27
□□□12機 攻撃は毎2ケ月に1地区
現在実績
農安県 田中技師以下6名
密偵によるは最効果あり
時限信管
1kgペスト 500~1000斃し得
最終更新日:2015/03/07 12:30
[浙江省温州市のペスト菌実験]
日本軍では普通の村で村人に対しペスト菌の生体実験をしています。
その記録です。
浙江文史資料「鉄証」-侵華日軍在浙江暴行紀実-から
1995年
*村を封鎖し予防接種
1944年9月19日、日本侵略軍・峰岸部隊約7~80人は、隊長伊藤に連れられて楽清翁垟に進駐し、九房村、陳叔興の新しい村を接収した。
10月21日九房村を封鎖し、白いつなぎを着た数人の日本軍医療関係者が、人々に予防注射を打ち九房村にペストが発生したといった。
九房村は300戸余1000人余りの人口で住居がかなり密集している大きな村だった。
*ペスト患者を次々[実験」に
間もなく封鎖地区内で予防接種をした人が予定通りペストを患い始めた。
しかしこれがペストだとは誰もわからず脇や太腿に肉団子のようなしこりが出来たと思うだけだった。
屋外のあちらこちらで黒いネズミの屍骸が見つかった。
白衣を着た日本軍医療関係者はいつも封鎖地区内を巡視し、家の中からうめき声や子どもの泣き声がり、あたふたした村民を見かけると、すぐに入って検査をした。
村人の陳永盖は病気で床につき、日本軍医が検査した時に、リンパ腺が何ケ所か腫れているのが見つかった。
日本軍はすぐに命令して彼を前祠堂の実験所に運び込ませ始めての実験をした。
それから封鎖地区の疫病は非常な速さで蔓延し、病気にかかった者は100例近い。
このように5人が実験された。
*棺をこじあけて採取
封鎖が解かれた後も九房村は引き続きペストが発生し、後街・中街・前街でさえ感染者が出た。
半月ほどたった後、突然白衣を着マスクをした数人の日本軍医務員がやって来た。
かれらは1ケ月前に実験所で死亡した陳俊順と陳余千の母親の家族に案内させて、棺をこじ開けて死体から何かを取り出し、ガラスビンの薬液の中に入れて持ち帰った。
実験で犠牲になった5人以外に病死したものは15人であった。
最終更新日:2015/03/21 12:46
1944年の日本の資料は大塚備忘録から始めます。
大塚備忘録から
4月26日 陸軍省局長会報
石井少将より
5月1日研究報告 ホ号は如何
1キロペストを作るに12,500のネズミが必要だった
初期にこれが1割しか出ぬ
生産見込みが立たぬ故1割でやれと命令した
平均2,000で培養された、満州、最低2~3,500
学者を動員しネズミ増殖に関し研究せしめた
水の補給が生殖に重大
服部参謀本部作戦課長
シドニ-、メルボルン、ハワイ、ミッドウエ-、
ペストを1ケ月生かす様にせよ(潜水艦で)
参本
八紘一宇は云わぬ、防禦一点張りか、
対抗手段の為め利用は云わぬ
別名ははっきりした
機密保持
服部、高山、細田
上奏するや否や 親裁 臣下だけでやる
ガス 陛下は不可で許されぬ、
局長は上奏せぬが可といわれた
参本上奏せぬ事に決定した
局長の言であるが、総理大臣にも云わぬほうが可との事なり
それは困る、云ってしまった、隠す訳にはいかぬと参本と云った
石井
編成経過に就いては総理大臣にも云わぬ
ホ号にふれぬ
注:天皇にも総理大臣にも秘密で細菌戦を行おうとしていた
5月23日 (満州に出張した小出中佐の報告です)
チフス保菌者治療
胆嚢部超音波 サルバルサン注射が効果あり
サルバルサン、注射ワクチン-着手せんとす、
手術的治療-マルタ実験
膿菌を入れる、効果あり
ウジ弾
製作の希望あり、宮田参謀に申せり
予算と資材を申出よとの事なり
ホ号関係
高々度よりする集中攻撃 命中及濃度構成ありしが、
現在効果をあげる見込なき如し
ペスト生産 田中少佐の研究 餅の使用12分の1となる
丸太500名
局長、餅を犬にしては如何、犬を使用し実施しあり、
石油缶を培養缶に代えあり
今冬より春にかけ演習成果
丸太使用実験は中央として大いに全軍的に重要な事を解決せしむる為なり
発疹チフス予防施療液
5万人を有す
関東軍は労務者に使用しあり、効果ある如し
7月5日
細菌戦=(ビアク、サイパン島に使用せば如何)
1 可能なりや、ある程度可能性
(小出)限定せる地域に限られやる、ある程度医学的には効果あり
地域、時間、一部この案を用いるも時期的、□□的に制約せず
整備命令 月産50~50kg
3 報復手段を考慮の要あり
報復 細菌戦 ガス戦
4 敵軍に対し作戦したる場合の効果判断
作戦を不可能にならしむる如きは望み得ず
注:日本軍が全滅したサイパン島に細菌攻撃をする計画です
7月22日
杉山大将
関東軍防疫給水部を作りしは非常に際した、用いる
参謀長時代
ホ号は実施て可、ただし良民を傷つけしは不可
秦
そんな事は出来ぬ、Fも味方も玉砕だ
この条件附けてやれ
御上に申上げるは考慮を要すと
細菌は之を使わせて勝てるようにせよ
局長
ホ号の使用に関し尋ねられし場合如何に答ふべきや、
腹蔵なく意見を述べられたし
注:天皇に訪ねられたらどう答えるか?ということですが
案は出ていません。
サイパン大宮(グアム)取り戻すとして如何
局長
1平方米Px10疋とすれば1平方キロ米1040キログラムを用いる
8キロメ-トル138平方
半分消耗するものとしてPx約2トンを要す
重点攻撃とすると1/7~1/10
石井
新ウジ弾 装内ウジ弾2,000発を出し得
1キログラム入れて2トン
雨下には今後半年を要す
今1機あるも速度遅い